文化・芸術

フェルメールを観る

 国立新美術館で開催されている『フェルメール「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画展』を観に行った。『フェルメールと~』ではなく、『フェルメール「牛乳を注ぐ女」と~』と言うタイトルが遠回しに断っている通り、フェルメールの作品は『牛乳を注ぐ女』一点だけである。

 あれだけフェルメールの名前一本で宣伝しておいて1点だけと言うのはあこぎとも思えるが、フェルメールの絵は世界で三十数点しか確認されておらず、所有する美術館は何処も門外不出に近い扱いをしているお宝である。この作品も「過去数百年で国外に貸し出された事は5回だけ」だそうで、事情を知る人にとってはあのはしゃぎ方もむべなるかなではある。

 とは言えそうでない人が観に行ったらやっぱりあこぎだと思いそうである。何故なら、正直この「牛乳を注ぐ女」と他の展示作品との落差が大き過ぎるからである。

 本展はそもそも17世紀から19世紀に掛けてのオランダ風俗画を紹介する物で、フェルメールの絵は17世紀の風俗画に入る。この風俗画とは、絵画が王侯貴族の物だった時代にその主題が歴史や神話にほぼ限定されていたのに対し、庶民の文化水準が上がって来た時代にそのアンチテーゼとして庶民の生活を題材に描かれた物である。主題が変わっても基本的なスタイルは変わらず、庶民の暮らしの一場面をドラマチックに、往々にして寓話的意味を込めて描かれている。

 しかし神話であれ庶民の暮らしであれ、絵画でドラマを描こうとするとその絵はイラストになってしまう。絵がドラマを説明する道具になってしまい、登場人物や背景は記号化する。描かれる対象と深く向き合う事で生まれる衝動的な感動はなおざりにされるのである。無論イラストだからそうした感動が無いと決まった訳では無いが、それが無くても成立してしまうのである。本展に出品されている作品の多くも、当時の文化や風俗を知る資料としては面白くても、絵としての魅力は余り感じられない物が多い。

 勿論写真や映像が出来る前の絵画はそう言う役割を担っていた物なので、それを批判する気はない。ただ時代を超えて現代に鑑賞されるべき価値を持つかは疑問と感じるのである。

 その点『牛乳を注ぐ女』は違っていた。我々が日常の中で一瞬発見するも、直ぐに無意識の中に埋没してしまう儚い美を、鋭く捉えて画面に定着している。これは現代人の琴線にも充分触れる物である。

 まぁ、先程の話から言うとフェルメールの絵も充分にイラスト的である。しかし他の画家と根本的に違うのは対象と向き合う姿勢である。語りたいドラマとは別に、描く対象その物に美を見い出して、その本質を絵画的美に昇華しているのである。対して他の画家達が美を見出しているのは描く対象ではなく先人の作品だと思える。そのディテールや色彩は描かれる対象自体から見出された物と言うよりは、過去の作品から寄せ集めて再構成した物である。見た目が美しい絵を描くにはその方が手っ取り早いし、語りたいのがドラマならそれで充分なのは言うまでもない。それがイラストである。

 ちなみに本展に出展されている作品でも、19世紀以降の作品は当然ながら近代的な価値観で描かれており、現代的な美を持った作品が多い。

 とは言えやはり作品としての力は「牛乳を注ぐ女」が圧倒的である。正直言ってこれ一点だけの為に入場料を払う展覧会だと言っても過言では無いが、「牛乳を注ぐ女」にはそれだけの価値が有ると個人的には思う。

 ・・・って、招待券で観に行ってて言えた筋合いでもないがな(笑)・・・・・

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怪獣と美術展に行く

 足利市美術館で開催されている『怪獣と美術』展を観に行く。足利は遠いが、神奈川県立近代美術館・葉山よりはましである。

 この展覧会は

「怪獣を創っていたのはファインアートの世界で活躍していた芸術家達だった」

と、言う事実を再検証し、外国で評価が上がりつつある日本のサブカルチャーを国内のアートシーンでも取り上げる事で、経営に苦しむ美術館に客を呼び込もうと言う打算的な試みである・・・ってのは多分に事実だが(T_T)、ファイン・アートとかサブカルチャーとかのカテゴリーに囚われずに作品と向き合い評価するのは今後必要な事であり良い事である。

 で、この展覧会のメインは度々取り上げている成田亨である。本展は東京でもやってたのだが、今回わざわざ足利まで来たと言うのは、先日観て来た『大江山の鬼モニュメント』の原型が展示されると聞いたからである。

 要は大江山のモニュメントの台座が高過ぎて彫刻が良く見えないから見に来た訳である。

 この原型はブロンズ像用の型を取るのに使われた物で、大きさも形も大江山の像と同じである。細かい事言うと、型取りの際に一度バラバラにされた物を繋ぎ合わせたので、細かいディテールは変わってるらしいのだが、全体に大きく影響はしないだろう。

 実際に間近で見るとこれ程印象が違うかと驚いた。大江山で見るより遥かに迫力が有る。大地を踏ん張る力強さや体の動きの流れの美しさ、ダイナミックさ等、本来この像が持つ魅力がより良く分かる。ここまで来た甲斐があった。

 鬼が強烈なのでその他の展示の印象が薄くなってしまったが、怪獣も怪獣以外の作品も結構幅広く展示されていて良かったと思う(←適当(^ ^;))。

 ちなみに本展は12月2日のNHK教育テレビ『新日曜美術館』の後半で少し紹介されるらしい。鬼の原型は図録にも載ってないし、紹介されるのを期待して録画する事にしよう。

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北近畿・山陰の旅13 大江山鬼モニュメントを観る

 帰り道、天橋立の近くに有る大江山へ寄って行く事にする。

 ここには一昨年、当ブログでも紹介した成田亨作の鬼モニュメントが有る。

 成田亨についてはその時に詳しく解説したので省略するが、このモニュメントは彼の晩年の大作で、ブルデル直系の血筋を感じさせる躍動感と重量感が見事な作品である。また、三体の鬼の動きと台座のフォルムが全て呼応し合って生み出される美しさは、抽象彫刻で頭角を現した成田の形に対する感性の鋭さを感じさせる物だ・・・が、幾らなんでも台座が高過ぎでしょ(T_T)!?

 聞いた所によると、この手のモニュメントを作る場合、決められた高さが無いと国からの補助金が貰えない為、当初の計画より台座を高くしたんだとか。ダムや道路と同じいい加減な仕組みが芸術までも歪めているとは情けない。

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 大江山からの帰り道、林の中に・・・鬼が!!(トトロじゃねーってば(怒)!!)

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 こう見えるのはこの位置からだけで、近付くとバラバラになってしまう。誰かが狙って作った物では無さそうだ。

 もしかしたら大江山の鬼の怨念の表れなのかも知れない・・・・・(見た目可愛い過ぎだけどな(T▽T;))


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高島野十郎展

 三鷹市美術ギャラリーで開催されている高島野十郎展を観て来た。

 後半生、画壇や他の画家と殆ど接触を絶って独特な写実的静物画や風景画を描き続けた高島は美術界からは忘れられた存在…と言うより端から殆ど認知されていない画家であった。

 没後30年を経た今も美術界での評価はさほど変わっていない様だが、その一方で美術関係者以外の一般の人々の間で非常に人気が高まっていると言う。

 帝大(現東大)農学部水産学科を主席で卒業しながら、卒業後即画家へ転身したと言う異色の経歴を持つ高島は、絵の技術は完全に独学で身に付けたそうだが、単身欧米に滞在して古典・近代絵画を詳しく研究する等、独学とは言っても自分なりに目的と道筋を明確にしながら修練を進めて行った事が伺える。この辺り如何にも理系らしい。

同時に絵の具の経年変化やキャンバスの地塗りの耐久性に付いて詳しく研究していたそうで、地塗りしたキャンバスを二つに切って片方を野ざらしにし、室内に保管した物と比較する等と言ったかなり厳密なテストを行っていたそうである。そのお陰で彼の作品は他の画家のそれと比べて非常に耐久性が高く、カビや火災の被害に遭いながらも破損が少なかったと言う逸話も有る。これまた理系らしいエピソードだが、それ以上に作品を長期間残す事に対してこれだけ意識的に拘った画家がいた事に新鮮な驚きを覚えた。彼が一つ一つの作品に強い思い入れを込めながら描いた事が感じられる。

 科学者と芸術家は探求者と言う面では似た存在だと思う。高島の場合仏教に傾倒していた面も有ったそうで、更に求道者的側面が強くなっていたかと思われる。彼の画面の隅々まで精緻に描く写実的静物画や風景画には、全ての物に対する分け隔て無い『慈悲』が込められているのだと言う。全ての物の存在を肯定し有りのまま細密に描く。これは画家の印象や自己主張を排除した極めて客観的な制作姿勢の様だが、「慈悲」と言う感情には物を単なる形や色で捉える客観性とは異なる画家の主観性が有ると思える。結果高島の描く静物や風景は、一見有るがままを正確に描いている様に見えながら、実は画家本人の『見方』や『感じ方』が濃密に描き込まれており、描く対象の内面的本質に迫る、或いはそれを鏡の様にして画家自身の内面を描き出すに至っていると感じる。そこが単なるフォトリアリスティックとは違う魅力、有る意味魔力に近い隠された力となって見る者の心を捉えるのだと感じる。

 高島の生前に彼の個展を見た美術関係者は彼の絵を「古臭い」とか「素人臭い」と切り捨てたそうである。客観的写実の役割を写真に明け渡した近代絵画は画家の作家性を強調し表現を先鋭化させる方向に突き進んでおり、写実的な細密画は存在意義が無いと考えられていた。また、専門的な美術教育を受けていない事のハンデなのか、高島のデッサンや画面構成には甘さが感じられるのも事実である。この時の美術関係者が高島の絵をこうした表面的理由だけから否定したのか、独特の魅力に気付きながら、しかし今の美術界では受け入れられないだろうと言う意味で否定したのかは分からないが、専門家と言うのはえてして業界の潮流におもねる判断を安易に下すのも事実である。

 そんな流れで発展した現代アートは一部の『分かる』人達だけの愛玩物となり、その反動からかアニメ等のサブカルチャーをアートに格上げしてアートの大衆化の拡大(と言うかマーケットの拡大)を計ろうとするかの様な風潮も有る。何がアートでも別に良いし格付けする気も無いのだが、そんな中で高島野十郎の絵に惹かれる大衆が増えている事の意味は考えて欲しい所である。

 高島が晩年に描いた月の絵は、濃い緑の背景に白い丸が微妙な濃淡で描かれた物で、そのシンプルさは一見現代絵画を思わせるのだが、そこには現代絵画の様な気をてらった印象は無い。あくまで写実を突き詰めた末のシンプルさで、そこからは人里離れた土地の真夜中の静謐さが驚く程具体的に感じられる。実はこうしたシンプルな背景の絵や、画面の隅々まで均等に力が入って主題が曖昧な絵は有る意味日本画っぽいと思う。作家が強烈に自己主張せず、描く対象にさり気なく気持ちを込めるのは日本画には多い作風で、アミニズムを母体にする日本人の精神を反映した表現かと思う。その辺も高島の絵が大衆に受ける理由の一つかと思う。

 愚直で心に響く絵。見ていてちょっと泣けた。

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シュヴァンクマイエル展

 神奈川県立近代美術館・葉山で開催されている『シュヴァンクマイエル展 -GAUDIA-』を観に行った。

 チェコ アート・アニメ界の重鎮にして最大の異端であるヤン・シュヴァンクマイエルは、社会主義体制下のチェコで抑圧と闘いながら独自の表現を切り開いて来た戦闘的シュルレアリストである。

 人形や粘土、動植物の標本、そして生身の人間がアニメーションの技法によって等しい生命感を与えられ怪しく動き出す彼の映像作品は、無邪気で諧謔的、奇怪で滑稽、破壊的で創造的である。それは時に無垢で混沌とした不安の中に有る子供の頃の世界を思い出させ、時に現代社会への鋭い洞察も感じさせる、極めて深く独特な物である。

 今回の展示は『蒐集物の陳列室』と彼が呼ぶ平面・立体作品群と、初期の実験的アート作品、映画美術等から構成される。この作品群には彼の伴侶であり作品制作のパートナーでもある画家・エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァーの作品と二人の共同作品も含まれる。

 『蒐集物の陳列室』とは、近代以前の博物館である。科学が今程発達していない時代に作られた博物館は、世界中から集められたいかがわしい蒐集物で溢れていた。日本でも古寺等に人魚のミイラとか鬼の骨とかがまことしやかに伝わっていたりするが、そんな類である。シュヴァンクマイエルは現代人の知識と合理主義の目で見ればいかがわしいそれらの陳列品も、当時の人々にとっては想像力を駆り立てこの世界が不思議と魅力に満ちた物だと感じさせる本当の博物館だったのだと考える。そして逆に合理的知識を学ぶ場となった現代の博物館は自由な想像力を刺激し人間の精神を開放する役割を失ったと考える。

 そこで彼は自らの想像力によって独自の蒐集物の陳列室を作り上げた。奇怪でユーモラスな様々な生き物達が図版として、剥製標本として壁や床に所狭しと並べられた様は圧巻だ。これらの図版や標本は全て現実の百科事典の図版や剥製標本のコラージュで作られている。我々は物を認識する際に過去に見た物との類似によってその物の意味を把握しようとするが、現実に存在する物を不規則に断片化し個々の意味を無視して再構成したこれらの生物は、そうした我々の認識を混乱させ、パターン化した思考に慣れた脳髄に新たな蠢きと快感を与える。シュヴァンクマイエルはこの手法で、前記の『生物学』だけでは無く『建築学』や『地理学』等トータルな『博物学』の体系を作り上げ、我々が認識する合理的世界を様々な角度から解体・再構築し、我々が心の奥底に封印していた不合理な愉悦を呼び覚ます。これらの作品群を彼は『芸術』では無く『魔術』と呼ぶ。

 これらコラージュ作品は彼の映像作品の素材にもなっている。動かぬ剥製だった夢想世界の生物をコマ撮りで撮影して行く行為はさしずめシュヴァンクマイエル魔術の儀式と言えるだろう。そして出来上がったフィルムが上映された時は新たな魔術の発動である。発動した魔術は我々観客の頭の中で作用し完成するのである。

 この美術館は現代美術を扱う館らしく展示室の天井が非常に高い。今回その展示室の壁一面を使ってシュヴァンクマイエルの映像作品も上映されていた。半端な映画館より大きなスクリーンに映し出された動く剥製達は、その横に並んだ動かぬ剥製達もが今にも動き出しそうに感じる魔術を我々に掛けている様だった。

 その次は初期の実験的作品の展示コーナーである。ここには数多くの触覚の記憶をテーマにした『触る』作品が有るのだが、美術館の慣例通り作品に手を触れる事が出来ないのには矛盾を感じた。中には作品が黒い袋で覆われていて、袋に手を入れて触る事で成り立つ作品が幾つも有るのだが、触れないとなると、ただ同じような黒い袋が幾つも並んでいるだけで展示その物が無意味である。一応言葉による説明が横に貼られており、主催者側としては「こう言う作品が有る」と知って貰えば良い位に思っているのかも知れんが、我々は作家に対するうん蓄を求めて美術館に足を運ぶ訳では無いのである。展示をするならその作品をちゃんと本来の形で鑑賞したいのである。この辺何とか良い方法を考えて貰いたい物である。

 次に映画美術である。『アリス』に出て来たウサギや『ファウスト』の人形やセット等、ファン的には感涙物である。

 てな訳で、片道3時間の労力を掛けて行って来た本展だがその甲斐は有った。とは言え不満も有る。今回の展示は全体的にはかなり大規模だったと思うが、個々のジャンルに関して言うと量的に物足りない感じが残った。シュヴァンクマイエルの展覧会など日本では始めてなので取り敢えず全体を俯瞰した物になるのは当然だろう。何回も開かれる様になると特定ジャンルに的を絞ったディープな展示も有り得ると思うので今後に期待したいが・・・・・そんなに開かれないだろうなぁやっぱ(;_ ;)。

 あとカタログに収録されている博物学の図版が小さ過ぎる。壁を埋め尽くす様に並べる展示方法自体に狙いが有るそうなので、カタログでもそれを再現する意味で一頁に沢山の図版を並べているのかも知れないが、如何せん何が描いて有るのか分からない(-_-;)。博物学に付いては以前に作品集が刊行されており、これも同様に個々の図版が小さくて不満だったのだが、今回なお小さくて殆ど図版収録の意味が無い。この辺ももうちょっと考えて欲しい。

 てなとこで。また長くなっちまいましたな(笑)。

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北九州紀行7 『成田亨の世界』展を観る PART2

 本展の展示はウルトラシリーズのキャラクター・デザイン画が全体の2/3程を占めているが、それ以外にイラスト、映画の絵コンテやコンセプト・アート、油彩画、彫刻等の立体作品が展示されており、成田亨の多彩な活動を垣間見る事が出来る。

 ちなみに私は怪獣には興味が無かったクチなので成田亨の名を知ったのは偶然見たイラストによってである。それは『マイティ・ジャック』のメカが空や海で活躍する姿を描いたシリーズだった。昔から映画好きだった私は欧米のSF映画に関わっていたシド・ミードやクリス・フォスと言ったデザイナーやイラストレーターをきっかけに、海外のSFイラストに興味を持っていた。主にSF小説のカバー用に描かれたイラストで、同種の物は当然日本にも有ったのだが海外の物は全く異質だった。

 最大の違いは空間表現で、構図の取り方も色彩表現もとにかくダイナミックで、大袈裟では無く今にも飛び出して来そうな、或いは吸い込まれて行く様な錯覚を覚える程の迫力が有った。それらに比べると日本のイラストレーターの描く絵は如何にも平板でこじんまりと纏まっており、この感覚の違いは何だろうか?住んでる土地や家の広さの違いから来るのだろうか?等と真剣に考えた物である。

 所が成田亨のイラストには海外のイラストレーターのそれを上回るダイナミックな空間表現や洗練された色彩感覚が有った。そしてそもそも基本的な絵の技術が海外を含めた他のイラストレーターより上・・・と言うかかつて見た事が無い程に上手かった。特に感動したのが『雲』や『波』の表現だ。

 『雲』や『波』を描くのは有る意味簡単だ。適当に描いても雲や波には見える。しかし本物の雲や波を描ける画家が果たして何人居るだろうか?私達は或る時ふと見上げた空に浮かぶ雲の美しさに息を飲んで見とれる事が有るが、その美しさを本当の意味で絵画から感じた事が有るだろうか?

 成田亨は『雲』や『波』だけの絵を描いている。背景としては数多の絵に描かれている雲や波だが、私が知る限り雲や波だけで絵にしたのはターナーとクールベ位である。しかも二人の雲や波はあくまで絵全体から受ける印象をテーマにした物で、雲や波自体は抽象的で類型的に描かれているに過ぎない。

 しかし成田亨が描く雲や波は違う。塊感と曖昧さを併せ持ち、力強さと儚さを同時に感じさせる不思議な生命感を持った雲の魅力が絵の主役として圧倒的な存在感を持って迫って来る。それは決してフォト・リアリスティックに描かれた物では無い。油彩の場合タッチは荒く、部分的には緑や黄色などの有り得ない色が使われていたりする。また水彩イラストの場合、そもそも雲は描かれていない。塗り残した紙の白い地肌が雲になっているだけなのだ。にも関わらず一目見た瞬間に「あっ!これこそ俺が感動した本物の雲だ!」と感じ、それまで自分が絵画やイラストで見て来た雲はどれ程美しいと感じた物でも所詮は本質を失った単なる記号に過ぎなかった事を思い知らされるのである。波も同様である。

 ここで私は絵画とイラストを同列に並べて話をしているが、絵画とイラストの分類は明確にして曖昧だ。現代の定義から言うとイラストと言うのは「情報を伝える道具として描かれる絵」で、絵画は「画家の感動を表現する為に描かれる絵」と言う事になる。しかしイラストとして描かれた絵でも描いたイラストレーターの感動が表現されて観る人の心を打つ場合は有るし、絵画として描かれた絵でも漫然と安易に描かれて何の感動も与えない場合も有る。従って私は敢えてジャンルは問わずに作品に接しているつもりである。

 本展には成田亨のイラストとして前述の『マイティジャック』や『ウルトラ』等のテレビ番組のキャラクターを描いた物に加え、私的に描き続けていた『日本のモンスター』シリーズの一部『龍』や『天狗』が展示されている。絵画としては若い頃に映画のロケで赴いた南太平洋の海と人物を描いた連作や、晩年に制作された『絶望』をテーマにした人物画や静物画が展示されている。中でも枯れたひまわりを青空の下に描いた『ひまわり』は絶品である。並べてみると成田亨の絵画はあくまで絵画だが、イラストの方は場合によって多分に絵画の要素が入り込んでいる事が分かる。例えばマイティジャックが波間から姿を現すイラストはイラストと言いつつ60号の油彩で描かれており、絵の大半はうねる大波で占められこの波の迫力や情感は明らかに絵画だと実感出来る物が有る。

 成田亨はデザインだけでなく映画の特撮美術監督も務めており、本展にはコンセプト・アートや絵コンテが何点か展示されている。この成田亨の特撮監督としての仕事は非常に興味深い。何故なら彼が特撮監督を務めた映画は円谷作品では無く怪獣映画ですら無いのである。彼が特撮を提供したのは『新幹線大爆破』や『戦争と人間』、『この子を残して』と言った大人が観る映画だったのである。ここで求められる特撮は怪獣映画の様な『おもちゃ遊び的面白さ』では無く、『ドラマに溶け込んだリアルさ』である。『スターウォーズ』が作られる以前、特撮と言えば円谷プロの独壇場で、正確な縮尺のミニチュアを精密に作る事を自慢していた時代に、彼はミニチュアに大胆なパースペクティブを付ける、セットの一部(或いは大半)に引き伸ばした写真を使う等の当時他の人がやらなかった手法でミニチュアならではの撮影上の制約から来るチャチさを乗り越え、円谷作品より遥かにリアルな映像を作り上げていたのである。こうした手法は「映画は立体を撮影しても完成した映像は平面である」と言う考えに基付き、あくまでフィルムに映った映像がどう見えるかを考え、そこから逆算して必要なミニチュアやセットの姿を考えると言う、言わば絵の具とキャンバスの代わりにミニチュアとカメラでハイパー・リアリズム絵画を描く行為である。これは極めて画家らしい技能と感性が発揮された仕事だと思うのである。

 最後に彫刻作品であるが、本展には怪獣や宇宙人をモチーフにした小品が数点展示されているのみだが、会場で上映されているビデオで成田亨の代表作である『大江山鬼モニュメント』の制作風景が見られ、これが非常に良い。鬼と言っても角が生えている以外は人間であるから、決してキワモノでは無く純粋な男性立像である。先に成田亨は抽象彫刻で頭角を現した作家だと述べたが、彼が美大時代に師事していたのはブルデル直弟子の清水多嘉志と言う彫刻家で、彼はブルデルの工房で師範代を務めジャコメッティにも教えていたと言う人物である。つまり成田亨はブルデル直系の具象彫刻を専攻しているのである。

 ブルデルはロダンの弟子で、ロダンの自然な写実主義に対して『建築的構造』と言う概念を生み出した彫刻家である。この『建築的構造』を平易に説明するのは難しいのだが、例えば動かない彫刻で人体を表現する場合、いくら解剖学的な正確さで作っても瞬間を切り取った静止した人物しか描く事は出来ない。しかしブルデルは人間の体の動きやその時の力の働きを彫刻で表現しようとした。その為に走っている人間の像に足を何本も付けたり、足の代わりに渦巻きを付けたり・・・・・する訳は無く(^^;)、人間が動く瞬間の体の中での力の流れを人体各部の構成で見せる方法を考えたのである。足元に掛かった力が人体の何処を通って何処に抜け、何処で受け止められるかを骨や筋肉の単位まで分解して考え、表現する動きに応じて発生すべき力を流し受け止める方向に各部を配置し組み立てて行くのである。そして力が掛かる部分、力を受けて動き出そうとする部分には若干の変形が加えられる場合も有る。それによりあくまで瞬間を描きながら躍動感や力強さを表現する事に成功したのである。これは解剖学とは別の視点からの人体の再構成だと言えるが、だからと言って必ずしも解剖学的正確さを無視する事では無い。ただ特定のモデルを正確に描くことだけを考えていては見えて来ない人体の本質に迫る行為だと思う。

 ブルデルはこの手法で様々な題材を作っているが、特にブルデルならではの力強さや躍動感が生かされていると感じるのは古代神話の英雄を描いた『弓を引くヘラクレス』像で、彼の代表作となっている。現代において神話の英雄像が作られる事はまず無いと思うが、成田亨は偶然にも『鬼』と言うこの神話の英雄に通じる滅多に無い題材を得て、ブルデル直系ならではの力強さと躍動感を遺憾なく発揮した男性裸像の傑作を生み出した。これは実に幸福な出会いだったと言えよう。

 と言う訳でブログにあるまじき長さで紹介して来た本展・・・つーか成田亨で有るが、改めて総括すると、とかく『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』等のデザイナーとしてばかり語られる彼だが本来は彫刻家・画家であり、同時に映画・テレビ等の特撮美術監督・デザイナーとしても活躍し、更にテーマ・パークや博覧会等のアトラクションやディスプレイのデザイナーも勤める等、正に現代の混沌とした『美術界』の中で『芸術家』がなすべき事・出来る事を精一杯模索し開拓し続け、独自の業績を残した『現代』を代表する真の芸術家の一人であると私は理解している。

 近年アメリカ美術の影響で美術の定義はますます混沌の中に有り、成田亨もサブカルチャーがポップカルチャーに格上げ(?)される様な形で美術館の展示対象に入って来た経緯が有る。美術の分類に興味は無く、ましてや貴賎を付けるつもりなど全く無いが、美術ファンとしてはこの混沌の中で押し寄せる情報に流されると、何か大切な物を見失うのでは無いかと言う危機感を感じる。既存の、或いは新たな権威や価値観に惑わされず、もう一度自分にとって美術とは何かと考える事が必要だと思うがどうだろうか。

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北九州紀行6 『成田亨の世界』展を観る PART1

 田川市美術館で開催されている『成田亨の世界』展を観た。展覧会の紹介に入る前に、恐らく余り知られていない成田亨と言う芸術家について私が知る限り解説してみようと思う。

 とかく『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』等のデザイナーとしてばかり語られる事が多い成田亨だが、本来は彫刻家・画家であり、ウルトラQのデザインに参加した頃の彼は抽象彫刻でアカデミックな公募展において入選を繰り返し、受賞経験も有る新進気鋭の彫刻家であった。

 そこで『ウルトラマン』のデザインを思い出して欲しいのだが、究極的にシンプルで有りながら明快な個性が有り、しかも美しいと言うデザインの理想その物である事が分かると思う。これは言葉では皆分かっているのだが実際にこの条件を満たすデザインを考えるのは中々出来る事では無い。

 しかし成田亨は主役のヒーローのみならず毎週登場する敵怪獣や宇宙人でもこの条件をクリアし続けた。カネゴン、ガラモン、レッドキング、バルタン星人等、子供がシルエットを見ただけでそれと分かる明快な個性を持ち、異形で有りながらグロテスクではない『カッコ良い』怪獣達には主役のヒーローと対等な生物としての尊厳が与えられている。又、メフィラス星人やペガッサ星人、チブル星人、ケムール人と言った宇宙人のデザインでは地球上の生物と掛け離れた抽象的なフォルムの中に生命感と存在感を与えている。更に40年近くを経てもその斬新さが失われるどころか益々際立つ『ウルトラホーク』や『ポインター』、『マイティジャック』と言ったメカニックデザインも見事である。

 これらのデザインはいわゆるデザイナーの感覚からは生み出されなかった物だと思う。成田亨が追求していた抽象彫刻とは具体的な『物』の中に潜む本質的な『美』を抽出する為に、枝葉のディテールを削ぎ落とし形を単純化・純粋化して行く行為だと言える。そう、成田亨は怪獣やメカニックのデザインを手掛けるに当たり、この抽象彫刻家的なアプローチを取ったのである。

 従って何故『ウルトラホーク』がいつまでも未来的でカッコ良く見えるかと言うと、実はこれが『メカニック』では無く戦闘機をモチーフにした『半抽象彫刻』だからなのである。戦闘機から人が感じる先鋭感やスピード感、力強さと言った印象を、彫刻家の感性と形に対する厳しい姿勢を持って単純化したフォルムの中に凝縮した物が『ウルトラホーク』だと言う事である。だからこれは時代を超越した永遠の『美しさ』、永遠の『カッコ良さ』を持っているのである。

 また抽象彫刻は観念の形象化でも有るから、成田亨は怪獣をデザインするに当たりメソポタミア文明まで遡って神話や伝説に残る怪獣の成り立ちやイメージの源泉を調べ、その上で驚く程の厳密さを持って自らの怪獣デザインの方向性を定義している。また、抽象化以外にも変形や同存化と言った古代から続く美術の中で編み出された表現手法をデザインに応用している。

 こうして生まれた成田亨の怪獣や宇宙人、メカニックは、本物の芸術家がその知識と応用力、高いテクニックと非凡な発想力を真剣に発揮して作られた『作品』だったと言える。それは純粋な意味での芸術作品では無かったが、人の感性を刺激し豊かにする芸術作品の価値を持っていたのである。

 と言う訳でキャラクター・デザイン以外の成田亨の仕事にも目を向ける必要が有ると私は訴えたいのだが、今回の展覧会は『成田亨の世界』と言うタイトルが示す通り、キャラクター・デザイン以外の成田亨の幅広い仕事にもスポットを当てようとしており、非常に意義が有ると感じる。

 てな所で次回はいよいよ展覧会の紹介と、キャラクター・デザイン以外の成田亨の仕事に付いて書いてみようと思う。(何か力入って来たな今回・・・・・)

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北九州紀行5 『田川へ行く』

 三日目はかつての炭鉱町として知られる田川市に行った。実はここにある物を届けるのが今回の旅の目的である。出発日の朝迄掛って仕上げた品を無事届けて肩の荷が降りた私はそのまま当田川市美術館で開催されている『成田亨の世界』展を観た。

 成田亨の名を知らない人は多いかも知れないが、彼がデザインしたウルトラマンやウルトラセブンを知らない人は居ないだろう。

 子供番組と言う理由からアカデミックな向きからは軽んじられる…と言うか無視され、世間ではオタクの愛玩物の様に扱われて来た成田デザインだが、はっきり言って世界に類を見ない、極めて洗練された秀逸なデザインである。

 そう、今こそ私は一人の美術ファンとして、国立の美術館だか博物館だかで『スターウォーズ』デザイン展なぞやりながら足元の至宝が見えていないこの国の『美術界』と言う名のうやむやに力の限り告発するのです。

「それって一体どーなのよ?」

 と言う訳で、美術ファン的視点からの本展紹介を次回やってみようと思う。

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北九州紀行2 『福岡市美術館へ行く』

 初日は午後に福岡空港に到着。取敢えず博多市内をぶらぶら歩いてみる。私は旅に出ると結構歩いて周る。名所を多く周る事は出来ないが、知らない場所を歩くと小さな発見が色々有って楽しい物である。

 で、博多駅から歩き始めて天神でとんこつラーメンを食った後、福岡市美術館迄歩いてみた。近くには県立美術館も有るのだが、ガイドブックに書かれたわずか2人ずつの収蔵作家名から推測するとこちらの方が好みの作品が有りそうだったのだ。

 建物に入ると美術館と言うより公民館か市役所と言った味気無い雰囲気だ。この辺は多くの市立美術館で感じる県立や国立との差だ。

 しかし収蔵作品は侮れない。ユトリロの初期の非常に良い絵が有るし、フジタやシャガール、ミロ、三岸好太郎、佐伯祐三、青木繁等が観られる。

 しかし何と言っても圧巻だったのはダリの『ポルト・リガトの聖母』(当然デカい方)だ。「そうかここに流れて来てたんだなー。」としみじみ思いながら、東京の企画展だったら絶対に人だかりで近付けないこの絵を舐める様に観た。とにかく30分経とうが1時間経とうが客は私以外誰も居ない。部屋の隅に座ってる美術館の人もずっと寝たままだ(笑)。息がかかる程の近さ(ガラスが無ければ)でいつ迄見ていても文句を言う人は居ない。デカイ絵なんで画集では分からなくなっていた細かいディテールもはっきり分かる(特にダリの場合細かいディテールは重要だ…と思う)。消失点に針を刺した穴が残ってるのも見える。正に至福の時間である。

 ちなみにこうした地方の美術館では余りビッグネームでは無い地元出身とかの作家の作品がコレクションの中心である事が多いが、こうした知らない画家の心に残る絵に巡り合えるのも魅力だ(でも名前覚えられないんだよなー(T_T))。

 てな訳で初日は自分的には結構満足であったのだった。

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ダ・ヴィンチの暗号

 『ダ・ヴィンチ・コード』と言う小説が話題になっている。

「西洋史二千年をくつがえす驚愕の新事実」

てなキャッチフレーズで、物語の中で語られる歴史的解釈や新事実とされる事柄が欧米で結構な物議をかもし出していると言う物だ。特に問題とされているのがキリストに子供が居たとする部分だそうで、先日カトリックの枢機卿がわざわざ「事実無根の恥ずべき本」等と批判の声明を出した程のスキャンダルになっている様だが・・・・・・正直個人的には「だから何?」って感じです。

 だって「二千年の歴史をくつがえす」って言うと凄い事の様だけど、要するに聖書の記述に嘘が有ったって事でしょ?聖書って歴史かよ!?あんな物が史実だなんて思うのは、世界中にハイテク大量殺戮兵器をばらまく一方で自国の小学校では

「人間や動物は神様がその姿で造った物で、単細胞から進化したのでは無い」

等と教える科学の使い方を完全に間違った野蛮国家の文化的未開人どもと言った一部の方々じゃないんですか?
こちとら爛熟した文明人なもんで、宗教の教典なんて物は宗教団体にとって都合良く作られた『宣伝』だと最初から思ってますんでね。えぇ。

 大体キリストが結婚していようが子供が居ようがキリストの教えの本質には影響無い筈。影響が有るのはキリストや神を利用して築き上げて来た教会の巨大な権威維持の体制だけだと思うがどうだろうか?

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